先日、一通の手紙が私の元に届いた。
学生時代の友人の父親からです。
若くして、志半ばにして逝った彼。
学生の頃の思い出が走馬燈のようによみがえります。





星になったわが子

彼は、平成七年二月二十六日朝、日立総合病院でがんのため逝去した。享年三十五才だった。
人間には、いつ何時どんな事がおこるかわからない。

徒然草の二十九段に「しづかに思へば、よろづに過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき」とあるが、あとに残された私たち二人は、深い悲しみと不幸のどん底に突き落とされた。

頑固で忍耐強く、要領の悪い子であった。
ここに私が大事にしている写真がある。中学校舎の前で柔道着を着て前列に座り、後に私が立っている。身体の丈夫な子供で、学校は無欠席だった。
高校でも柔道初段で主将をやっていた。




茨大工学部電気工学科を昭和五十八年の春卒業し、日立製作所日立研究所副参事として、大型コンピュータ用「セラミック多層配線回路基板」の研究開発に没頭していた。
数々の特許賞と技術賞をとった足跡と元気な頃の写真、作品を見ると胸が張り裂けるようになるのである。

机の中から、途上国援助のためアフリカの子供に協会を通じて送金を続けたこと、スキューバダイビングの免許を取ったり、手話の勉強をしていたことなどが出てきて涙ぐむのである。

人の一生なんて本当に分からないものである。
桜咲く日研の坂が疲れるとのことであった。あれから一年、妻の看病がはじまった。
私も、紅葉が木枯らしになり一段とさびしさの増す中、トンネルを越えて夢中で病院に見舞う毎日だった。

  石走る 垂水の上の 早蕨の
   萌えいずる春に なりにけるかも

夕べの雨も早く上がり、光の輝きにも春を感じる頃となった。
青い空、窓を開け息子に見せる。
「こんな空の下で釣りができたらいいな」と言う。じっと見て思い込む。心が引き裂かれる思いだ。つらい。
悪い病気で、自分は助からないと思ったのであろう、担当の医師と看護婦さんに礼を言った。

花が好きだった息子。
窓から紅梅が咲いていたことが、今でも眼に焼きついている。




亡くなる前日の夕方、息子は「ソフトクリームが食べたい」と言い、そしてとてもおいしそうに食べた。
「お母さん、もう帰ってもいいよ」を最後に、翌日の朝、父と母を残して先に逝ってしまった。

息子は、人生半ば、花を待たずしてつぼみのまま燃えつきてしまった。
しかし、研究所の皆さんに助けられチャレンジした研究成果が今、日立の大型コンピュータを支え、分身として世界に生きている。

几帳面で釣りが好き。晩酌の私を喜ばせてくれたものだ。
花が好きで、手入れしていた庭のバラも季節を忘れず咲いている。
息子は、ふるさとの山や川、草や木に思いをはせて、あまり多くを語らずあの世に逝ってしまった。

  空青く 紅梅しみる わくらばは
   夢なかばして 静かにぞ散る

松本 記  






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