壊れた春

福寿草に梅の花。
暦の上ばかりでなく、街にも確実に春が近づいてきているようです。




先日、友人から相談がありました。
中2の息子が登校拒否だという。

小さい頃は何でも話してくれたのに、この頃「口数が少なくなった」「言うことを聞かない」「いつも不機嫌な顔をしている」あげく、友人3人と夜遊び、喫煙、登校拒否。




これは、社会構造上の合理的差別が彼らの行き場をせばめているのではないでしょうか。

アリストテレスによると、公法の領域を支配している形式的意味の正義は「配分的正義」と呼ばれるもので、これは「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように扱え」という法諺により有名なことである。
類型的に同一の取り扱いをするため、すべての人を何らかの基準により様々な類型に分けるということである。

近代国家においては、上記類型分けが正義にかなったものであることを要求するにとどまる。
正義にかなった状態での分類分けが普通「合理的な区別(差別)」と呼び、近代における正義理念とされている。

しかしこれは一方、弱者に対しての差別へと進む傾向にある。





若い芽をどのように育てていったらいいのか。
家庭でも社会でも、考えていかなくてはならないだろう。
他人事としてではなく。

近年、青春という春が社会に壊されているような気がしてならない。

松本 記  




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