頑張れ新成人

奈良朝以前から皇族や貴族の間では、男子が15歳前後になると髪型を変え烏帽子をつける儀式「初冠(ウイコウカブリ)」が行われてきました。
この儀式が、やがて武家社会でも行われるようになり、幼名から成人の名前に変え、冠をかぶる「元服式」さらに江戸時代に入ると月代を剃る習慣にもなりました。

女の子の場合は、髪を結い上げる「髪上げの儀」が成人を意味するものでした。




その後、昭和23年1月15日を成人の日として、満20歳になった男女を成人と認める祝日にしたのです。選挙権や自由意志による結婚が認められ、社会人としての義務も併せ持つようになるのです。

ある人が言いました。成人式とは「酔えない葡萄酒を、甘くない砂糖菓子を送られる日」だと。
いろいろな権利とともに、社会的な規範を守ることを求められる大人としての社会。

昔は、子どもの次は大人でした。
15歳で元服とか、「赤とんぼ」の歌にあるように「姉やは15で嫁に行き」といったぐあい。
それが社会が発展するにつれて、子どもの次は「青年」になりました。
大人になるのを待ってくれる、いわゆる「心理的モラトリアム」です。

ところで、昔のモラトリアム青年は、強い「半人前意識」を持ち、はやく一人前の大人になりたいと思っていました。ところが現代のモラトリアム青年達は、半人前意識などなく、自分の生活を当然だと思い、一生懸命生きている大人達の生き方がばからしくさえ思ってしまいます。

様々な調査によると、青年達の多くは大人になることを喜んではいないようです。





注目されたい、かまってほしい、しかし正当な方法で目立つだけの力はない、そんなときに彼は手っ取り早く悪いことをして目立とうとします。ヒーローにはなれないけどアンチヒーローにはなれるのです。
ただ、現実に騒ぐのはごく一部なのでしょうけど。

「そんなにいやなら出席しなければいいのに」と、あるニュースキャスターがいってましたが、そこがモラトリアムなのでしょう。
無視して出席しないわけではない、居眠りするのでもない、大人に抗議したり式を中断させようというわけでもない。
出席はする、少しだけ(と本人達は思っているのでしょう)悪ふざけをする。いわゆる「のぼせ」なんですね。

モラトリアムは悪いこととは思いません。いろいろ考えたり、体験したり、勉強したりしながら、どんな職業につこうか、誰と結婚しようかと、大人になる準備ができます。
ただ、もう少し大人になるという意味を考えるべきではあると思いますが。

いやぁ、偉そうなことを書きましたが、私自身、大人なのかなあと思ったのは30歳をすぎてからだと思います。
いろいろ不満のある社会、どうぞあなたたち若い力で切り開いて下さい。ただ、一般的に集団討議は過激な方向に行きやすい(リスキーシスト)ことを考えて下さい。

新成人のみなさん、大人社会へようこそ。
歓迎します。

松本 記  




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